QAコミュニケーションアンチパターン 3章 甘い誘惑と不安の影
##甘い誘惑と不安の影
登壇イベントがあり、話した後の懇親会で声をかけられた。
「独黒と申します。よろしくお願いします!」
「あ、はい。有路です」
「もちろん知っていますよ。何度か登壇で拝見しています」
「ありがとうございます!」
何度も登壇を見ていると言う割には、見覚えがないことが気になった。最近では、声をかけてくれる人はイベントかSNSで見かけることが多いからだ。
「私はスタートアップ企業で『ドクロクロ』というサービスを展開しています。ご存知ですか?」
「す、すいません。勉強不足で」
一瞬、不機嫌そうな顔になった気がしたが、すぐに笑顔に戻った。
「新体験のマッチングアプリサービスなんですよ。アクティブユーザーも急増中で、20億円も資金調達しています。ほら、この雑誌にも紹介されています。」
ビジネス誌の小さい枠に紹介があった。確かに資金調達をしたらしい。マッチングアプリでの資金調達は珍しいなと思った。
「あぁ、マッチングアプリにお世話になったことがなくて」
「あれ、モテるんですね」
「いやいや、大学の時からの彼女がいまして」
「なぁるほどぉ」
独特のイントネーションだ。
「で、単刀直入に言いますが、CTOをしてくれませんか?」
「CTO?」
「はい、CTOです。品質が課題になっていて、品質に強いCTOが欲しいんです」
正直、CTOという言葉に心が躍った。心のどこかでこの役職に憧れていた。それが顔に出たのだろう。
「興味がありそうですね。この後少し話しませんか?」
「今日は約束があって…」
「では、明日は?」
ずいぶん展開が早いなと思いながら、今日断ってしまったのが申し訳ないのと、たまたま予定も空いていたので、了承した。
「では、明日の14時によろしくお願いしますね。」
次の日、待ち合わせ場所に行くと、近くの高級ホテルのラウンジに誘われた。コーヒーが一杯1,500円もする。
(はーひー)
内心驚いた。スタートアップながらお金の周りが良いのだろうか。
「で、一晩経って考えはどうですか?」
「やはり、自分のチームが好きですし、悩みますね」
「なぁるほどぉ」
「うーん」
「こんなチャンスはなかなかありませんよ。実際に3人ほど候補がいて、今日・明日には決まりそうです」
それを聞いて少し焦った。
「ここで断られたら、その方に決めるしかありませんねぇ。メビウス君ならと思って少し引き延ばしていたのですが」
「あ、そ、そうなんですか。恐縮です」
「ここまでして誘っている私の気持ちも考えてくれませんかねぇ」
その表情は少し怖かったが、罪悪感のようなものもあった。
「この場で決めていただけませんかね?」
すごく強引だ。
「じゃあ、この金額でいかがでしょう?」
提示された金額はとんでもない額だった。お金が全てではないが、そこまで自分を買ってくれるという気持ちの表れだと思った。
それから2時間近く、自分の事業が優れていることや、僕を高く評価していることを雄弁に語られた。少し演技っぽいのが気になったが、時間が経つにつれて心が傾いていった。
「ま、前向きに検討します」
と言ってしまった。独黒さんが喜んでいる。その場で契約書を書かされた。
次の月曜日、辞表を出しに行くと、香椎さんは驚いていた。
「えぇ、きゅ急だね」
「はい、このチャンスを逃したくなくて」
「そっかぁ、スタートアップでCTOか、それはすごいチャレンジだな」
「はい」
「その会社、大丈夫なの?」
この言葉に少し引っ掛かったが、独黒さんの前向きな言葉がリフレインしている。
「はい、将来性があると感じました」
香椎さんは少し考えるようなそぶりを見せたが、
「まぁ、若者のチャレンジを阻害しちゃダメだよなぁ」
と言って、辞表を受け取った。その日のうちにチームメンバーに説明した。その説明には龍井さんも来た。
みんな、快く送り出してくれた。来世さんは、
「ちょっと心配だな、その会社…でも、メビウス君の決断だしね」
自分も少しだけ引っかかっている。
独黒さんには辞表を出したことを報告すると、彼はすごく喜んでいたが、その下品な笑い方が気になった。
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