可能性の狭間:なぜ私は「整えられた世界」に息苦しさを感じるのか
都会のビル群や、視界を埋め尽くす広告が苦手だ。 それどころか、きれいに整備された公園の自然にさえ、拭いきれない違和感を抱いてしまう。
最初はそれを「作為」のせいだと考えていた。作り手の「こういうの好きでしょ?」という狙いが透けて見えることが、鼻につくのではないかと。
けれど、少し違う気がした。私は歪んだ線画や抽象画を好むし、どこか不器用なDIY感のあるカフェに安らぎを覚える。それらに「作為」が全くないわけではない。だとすれば、私は作為や人工物そのものを拒絶しているわけではないのだ。
次に「押しつけがましさ」を疑った。広告が「こっちを向いて!」「好きになって!」と迫ってくるあの独特の圧迫感。確かにそれは苦手だが、整備された公園にそこまでの圧があるわけではない。不快感の正体を「圧」だけでは説明しきれない。
考え続け、ようやく一つの感覚に突き当たった。 それは、それらが「どこかで見たことのある正解」ばかりで構成されている、という感覚だ。
目に入るのは、計算され尽くした構図、最大公約数的な色、効率的な形。「多くの人に好かれること」という同じ目的に対して最適化されたものは、自由度を失い、似たようなパターンに収束していく。
それらは確かに正しく、洗練されているのだろう。けれど、「正解」ばかりが繰り返される光景は退屈で、窮屈だ。
いや、「退屈」や「窮屈」という言葉ですらまだ甘い。私が感じていたのは、もっと切実で、もっと根源的な「拒絶」に近い感情だ。
なぜ、似たようなもので埋め尽くされることを拒絶するのか。 それはそこに、「可能性の制限」を感じるからではないか。
本来、美しさや在り方は、もっと無数で混沌としたものであるはずだ。それなのに目の前に差し出されるのは、人類がすでに知っているごく一部の「正解」をなぞったような風景。膨大な可能性の中から、特定の範囲だけが「正しい」とされ、そこから一歩も出ることが許されないような、見えない柵を感じるのだ。
では、なぜ「可能性の制限」が私を苛立たせるのか。
それはきっと、私にとって「可能性が広がっていくワクワク感」こそが喜びであり、人生において大きな意味を持つからだ。
選択肢が増えること。別の在り方が許されること。未知の未来が、まだ確定されずに残っていること。その「余白」にこそ、私は幸福を感じる。
だからこそ、最適化され、正解で塗り固められ、可能性の扉が次々と閉じられていくような風景に、私の本能は必死に抵抗しているのだと思う。
この閉ざされた美しさの先に、私の探している未来はない、と。
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