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行き詰まりや意味不明との向き合い方

に公開

ぼくは仕事でコンピューターの製造をしています。

ハードウェアの相性やバージョンによってコンピューターがうまく動かないときもよくあるのですが、その度に何かしらの発見があります。

これはぼくが大学と院の研究で常々感じていたあることと共通していると感じたので記事にします。

それは、
「行き詰まりは発見や理解のチャンス」
ということです。

なんだか安い自己啓発みたいで、字面は自分でも好きになれないのですが、本音です(もっとかっこいい言葉があったら変えます)。

たぶんエンジニア以外でも通用するとは思いますがこのコミュニティに残します。

研究活動で得た知見

研究活動を通じて、ぼくは意味不明なことと向き合う抵抗を減らすこととその重要性を知りました。

少し自己紹介

ぼくは物理・化学系の研究室で研究をしていました。

研究は修士までですが、これから研究について語らせてください。研究は情熱を持ってやっていました。

ぼくは研究を通して意味不明なことに向き合い続けました。学会発表で二度の受賞、それが評価され修士修了の際は卒業生代表を務めました。

勉強と研究の違い

大学や大学院の研究室では「研究」を行います。

世間では「研究 = とことん勉強をやること」のニュアンスで語られますが、実は両者には明確な違いがあります。

それは教科書を「読む」と「書く」の違いです。

勉強とは↓
- 自分が知らないだけ
- 世界は知ってる、教科書はある
- それを知ること
→ 教科書を読むこと

研究とは↓
- 世界の誰も知らない
- 教科書もない
- それを知ること
→ 教科書を書くこと

予想通りは安心?

優れた研究成果ほど、最初は意味不明に思えます。「何このデータ?」ってなります。

世界のだれも知らないことなんだから直ぐ理解できなかったり、ピンと来ないのは当然です。

逆に、予想通りの結果が出ることとは、自分の知ってることが再現されたに過ぎません。それは「勉強」の範疇であることがほとんどです。

たしかに、予想通りのことが起こると少し安心するのも事実です。ですがその安心が新たな発見を運んで来てくれることは少ないです。

もちろん、再現をとることは大切ですが、「研究成果」をあげるならば何らかの新しさや発見は必要です。

意味不明で研究は進む

最初は意味不明でも、しばらく考察を続けるとそのデータが実はとんでもなく価値のあるものだったと気付いたりします。だから研究成果を得るためには意味不明な結果と向き合う必要があります。

研究では色々なアプローチで考察したり、追加実験をします(筆者は一つの実験データを3ヶ月かけて考察したことがあります)。

最終的に意味不明が解消しようがしまいが、それと向き合うことで得られるものはたくさんあります。

  • 自分や周り(もしかしたら誰も)が知らなかった知識
  • 追加実験のヒント
  • 間接的な研究のセンス

などなど、意味不明と向き合えば遅かれ早かれ必ずこれらの効能があります。

これは必ずと言い切れます。そもそも理解の伸びしろがない状態で意味不明には直面しません。

このようにして、少しずつですが知見が広がり、センス(勘)[1]が蓄積することで研究は進んでいきます。または研究を進める能力が付きます。

エンジニアリングにおいても

エンジニアリングにおいても同じことが言えると思っています。

意味不明のパレード

コンピューターの世界には意味わかんないことがたくさんあると思います。

ぼくも日々なぞエラーに遭遇しています。

なぜか動かない、なんかパーツ同士の相性が悪い、なぞに通信できない、

だいたいの原因は自分の知識と経験の不足です。

ただ、ぼくが話したいのは知識や経験ではなくて、その謎への向き合い方です。

謎を考察の余地にしたい

研究の例で話した通り、意味不明なデータの原因とは自分や人類に知見がないことです。

知見がないというのは伸びしろです。
もちろんエンジニアリングは研究ではないので、人知を広げるという意味の伸びしろではなく、自分の知識における伸びしろのことです。別の言い方なら勉強としての伸びしろです。

でも、その向き合い方は研究と共通するものがあると思います。

自分にとって意味不明だから避けるのではなく、考察してみる、よく調べてみる、色々試してみるなかで知識やセンス(勘)、経験が蓄積されると思います。

避けるのではなく、正面から、変な向きから関わってみる。

そういう向き合い方をすることで、研究のそれのように少しずつ理解は進むのかもしれません。

それって当たり前じゃね?

上で述べたことはとても当たり前なことだと思います。結局、「なにごとも経験」「失敗は成功のもと」という言葉にまとめることもできます。

たしかにそうなのですが、ぼくはぼくなりの経験とそれから形成される文脈で、意味不明との向き合い方を言語化できたのかもしれません。

そんなことを感じた今日このごろです。

脚注
  1. 勘はバカにできません。スピリチュアル的なものではなく、経験からくる予想のことです。これは意外と当たったりします。ただし、言語化できていないので、なぜ当たりやすいかわからない予想です。 ↩︎

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