心理的安全性のその先へ。COTENの文化づくりから感じる相互変容性。
自己紹介
COTENに2025年4月に入社したデザイナーのkohです。
世界史データベース事業部でCOTEN Timelineという世界史データのViewerを作っているチームに軸足をおきながら、デザイナーという職種を存分に活かしてあちこちに首を突っ込んでいる日々です。役得役得。
半年ほど業務委託で関わってからの入社だったのですが、関わり始めた時COTENのチーム作りにとても感動し、今尚すごいなーと感じ続けているので今回はその話を書いていきます。
本記事を読んで欲しい人
思ったより真面目な内容になっちゃったんですが、
- 部下を持つ人
- 組織開発をしている人
- チームビルディングをしている人
- お互い思いやっているはずなのになんか噛み合わない人
- 上司は頑張ってそうだけどイマイチ空回ってるなーと感じている人
- 上司、心理的安全性を築くの下手だなーと思っている人
- 上司がめちゃくちゃ優しくて心理的安全性を感じている人
はぜひ読んでみてもらえると、新しい発見があるかもしれません。
心理的安全性の組織運用って難しくないですか?
心理的安全性の定義
心理的安全性という言葉は1999年にハーバード・ビジネススクールの教授、エイミー・C・エドモンドソン(Amy C. Edmondson)が論文 “Psychological Safety and Learning Behavior in Work Teams” にて
「対人リスク(無知・無能・否定されるリスク)を取っても、対人関係が損なわれないという信念」
として定義しています。
その後Googleの「プロジェクト・アリストテレス」という成績優秀なチームの共通点を探る研究で、最重要因子として「心理的安全性」が特定され注目を集めました。
“高パフォーマンスチーム=心理的安全性の高いチーム”という分かりやすいフレームとして理解され、拡大していったわけです。
日本でも2018年以降急速に概念が広まり、様々なところで意味が削がれ・歪みながらも組織論において心理的安全性が重要なトピックとして語られるようになりました。
昭和・平成で形成された価値観や体質からの脱却の補助輪としての希望を託された面もあるでしょう。
実践における課題
しかし心理的安全性が声高に語られるようになって以降、ハラスメントの観点も相まって「どこまで指摘していいかわからない」「飲みにも誘えない」「踏み込んだ言葉をかけるのが怖い」と、運用・浸透の難しさも語られるようになりました。
実際僕も前職では経営サイドとして人やチームのマネジメントを担っていましたが、正直なところチームの心理的安全性の確保には日々沢山の迷いが発生し、莫大な負担がのしかかっていました。
しかし提唱者のエイミー・C・エドモンドソンは、エイミーエドモンドソンが明かす、心理的安全性と内発的動機の相互関係においてこう語っています。
「私は心理的安全性を“職場において素直な態度は歓迎される”という認識だと定義しています。疑問や懸念、間違い、反対意見などを話すことで、対人関係におけるリスクを負うことができる環境が大切だと思います。」
この発言に照らすと実は、上司が「部下にどこまで指摘していいかわからなくなった」と思っている時点で対人関係におけるリスクを負えておらず、チーム単位で見た時の心理的安全性はしっかりと低いことがわかります。
多様性やハラスメントに対する理解が進む一方で、「何か問題になるんじゃないか」という不安が先立ち、マネージャーがリスクを取れない状態になっているとしたら、それこそが心理的安全性の壁のひとつです。
皆さんの実感としても「対人関係におけるリスクを負う」という行為がどんどん無理ゲー化していっている感覚はあるんじゃないかなと思います。
心理的安全性の受益者は誰か?
というわけで焦点を当ててみたいことの一つは「心理的安全性の受益者は誰か?」という問いです。
組織には大小さまざまな権力構造があります。多くの場合、心理的安全性は「その構造の衝突や摩擦を和らげる仕組み」として語られます。そして自然な流れとして「上が下に与えるもの」と捉えられがちです。
でも、心理的安全性とは本当に一方向に設計されるべきものなのでしょうか?
僕の答えはNOです。
部下が否定されないことと、上司が臆せず迷いやフィードバックを口にできることは等価です。
「ここはこうした方がいいと思う」と部下が言える環境と同じくらい、「仕事の進め方、実はこうして欲しいと思ってる」と上司が正直に伝えられる状態もまた、心理的安全性のひとつのかたちです。
この前提が欠けた権力構造に従う心理的安全性の提供主体の固定化は、そのまま上下の役割を固定化し、組織の成長や流動性を奪ってしまうことになります。
COTENは「人文知と社会の架け橋になる」という存在意義のもと、経験と教養のあるメンバーが集まっている組織です。そうした環境では、本来なら「知らないと恥ずかしい」「間違えるのが怖い」といった力場が自然発生して漂っても不思議ではありません。
ところが、実際のCOTENはとても開かれた空気を持っています。
「ありがとう」から始まる会話が多く、上下関係を問わず、相手の努力を見つけてはポジティブにフィードバックする文化があります。
しかも、それがポジティブなだけではなく、ネガティブなフィードバックも率直に飛び交っており、率直であることに対して安心できる空気があるんです。
これはなかなか得難い組織文化だと感じています。
こんな当たり前のことにCOTENに入るまで気づきませんでしたが、心理的安全性とは本来、そこに参与する全員が主体者となって立ち上げ、また同時に受益者となるものです。
つまりこれは嬉しいお知らせです。もしチームの心理的安全性の対象に自分が含まれていると感じられず、対人関係におけるリスクを負えない状態であるなら、その心理的安全性にはまだ進化する余地があるということです。
では、縦も横も含め全員が対人関係におけるリスクを負える状態にするにはどんな基本スタンスを持てばいいんでしょうか?
心理的安全性は「どう受け取るか」で生まれる
世界史データベース事業部のコミュニケーションガイドラインには「ポジティブな意図を想定する」と明文化されたものがあります。
言い換えると「邪推しない」「相手の善意を前提に受け取る」という姿勢で、個人的に僕が大切にしていることでもあったので、初めて見た時嬉しくなったのを覚えています。
これは僕の考えですが、受け取り方の差異は発された言葉そのものよりもむしろ、そこに流れる関係性のダイナミズムによって生まれる割合が高く、また受け取り方によっても関係性が動くと思っています。
当たり前のようですが、これは同じ言葉でも関係性によって受け取り方が変わるということであり、そして「どう受けとったか?」が新たな関係性を上書きしていく──そんな循環が人間関係にはあるということです。
普段から互いの価値観や意図に耳を傾け合い、開かれた関係性があれば、厳しい言葉も「否定」ではなく「成長を促すフィードバック」として受け取ることができ、そうすることでより深い関係性になっていきます。
しかし逆に相手の話に日常的に関心を示さず、一方的な評価だけを投げるような関係性であれば、たとえどこまで丁寧な言葉使いであっても「否定」と感じられてしまい、関係の悪化を誘うでしょう。
なので普段の関係性が大事という話...ではない
さて、この話には重要なポイントがあります。言いたいのは決して「肯定的に受け取ってもらえるように日々の関係づくりを頑張ろう」という、「その関係づくりに困ってるんだけど......」という何のヒントにもならないような話ではありません。
この人間関係の循環を通して伝えたいのは「受け取り方は関係を変えることができる」ということです。
もっと大袈裟でキャッチーに語ると、「人間関係というのは発し方が作っているのではなく、受け取り方が作っている」ということです。
中島岳志さんが著書思いがけず利他の中で
「利他的かどうか」は与える瞬間ではなく、受け取った瞬間に発生する
と書いていますが、これは行為主体の意図がどうあれ、とある行為を受け手が「利他的だ」と受け取るか「利己的だ」と受け取るかで意味が確定し、それに基づいて両者の間の関係性は変わるということです。
もちろんこれは利他性に限ったことではありません。
小説家の福永武彦が
恋愛は好意的な誤解である
と言っているように、発し手の意図がどうあれ、受け手が好意的に誤解をすればそれは恋という関係に育ち、また映画監督の大林宣彦監督が言うように
好意的な誤解が重なるコミュニケーションこそが、現実を豊かなものにする
のです。
(引用元: https://qonversations.net/interview/708/ )
つまり、上司が部下の強い提案を「チームの達成のために必死なんだ」と肯定的に捉えるのか「自己主張だ」と否定的に捉えるのかにおいて、本当はどういう意図が部下にあったかはあまり関係がないということです。
肯定的に受け取れば「チームのために必死になれる部下と、それを組織の力に昇華しようとする上司」という関係に。否定的に受け取れば「自己主張の激しいわがままな部下と、その扱いに困る上司」という関係に。
これは「フィードバックを気持ちよく受け取る」「発言を肯定的に解釈する」「心情の吐露を尊重する」など、組織に参与する人間は全員受け取り方によって主体的に心理的安全性をデザインできるということあり、そこに精神的・構造的上下は関係ないということです。
もちろんマイナスの関係性から始める場合はハードルが高くなってしまいますが、昨日までどっちだったかは関係ありません。発することではなく、受け取ることから関係性はいつでも再開できると僕は信じています。
心理的安全性は、毛布ではなくエンジンである
さて、ここまで語ってきたように心理的安全性は全員が主体となって作るものであり、全員が受益者となるものです。
その上で心理的安全性の上に僕たちは何を築くのか?ということを考えてみましょう。
それは目指す未来に対する変化に開かれた関係性。すなわちポジティブな相互変容性のある関係だと僕はCOTENという組織から読み取っています。
(そもそも望もうと望むまいと人間は相互に変容しているものではありますが、あくまで目指す未来に対する変化に開かれた関係性という意味での相互変容性と捉えてください)
心理的安全性によって対人リスクを負える状態を確保した先には、組織が・自分たちが目指す先に向かって「その発言が誰かや組織を動かしてもいい」という許容、そして「自分も動かされていい」という柔らかさが求められるようになります。
この覚悟に立って初めて「安心して批評できる」「安心して成長を求めることができる」「安心して弱音を吐ける」という、ただ安全であることから離れ、安全であることを動力にしたコミュニケーションが成り立ちます。
事実、COTENのValuesには
Inclusiveness: メンバーには組織における全てのことに発言権・行動権がある。コミュニケーションスタイルを尊重することでチームで働く人の力を生かし、より良い決断と推進を行う。
と定義された行動指針があります。
まさに「Inclusiveness」という心理的安全性の上に「組織における全てのことに発言権・行動権がある」という相互変容性が成り立つ構造になっており、これを見た時に人知れず感動したのを覚えています。
この構造を成り立たせるには強いビジョンへの共感や相手を深く理解しようとする挙動が必要不可欠になることでしょう。目指す未来が同じことを心から合意できているという関係性を築けていることを前提にしているからこそ、「動かされていい」という許容ができるんだと理解しています。
というわけで、心理的安全性の正体とは毛布のような包み込むものではなく、「安心して異論を唱える、安心して迷いを表現する、安心して未完成を共有する」ような変容のための動力だと捉え直すことができるのではないか?
そう捉えた時、心理的安全性の意味と在り方が変わるのではないか?という話でした。
変化のスピードが早く・複雑性が上がり続ける社会の中で「全員が変えていける・全員が変わっていける」という相互変容性は、しなやかな組織をつくると同時に、人がより豊かに生きるための足掛かりになると考えています。
まだ多様性を受け入れることすら難航している僕たち人類ですが、心理的安全性の先により良い相互変容性を見据え、違いを力に変えていけるチームデザインができるように自分も参与していければいいなぁと思います。
なんか真面目な記事になってしまいましたが、本稿が誰かの生活のヒントになれば幸いです。
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