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心的蓄積とどんなに近くても対外的な蓄積それぞれに別の敬意を.過程は違う.心的蓄積は経験の差分による暗黙知的な感性の磨きと感動と諦めにある

2025/02/02に公開

心の奥底に沈殿しているものは、すぐに姿をあらわさない。形をもたないそれを捉えようとすると、言葉がどれだけ巧みに紡がれても、どこかで指の間をすり抜けるような感触にとらわれる。外界から与えられた情報や、自分が社会のなかで勝ち取った実績の数々とはまるで位相が異なるからだ。そこにあるのは、単なる知識やスキルではなく、経験によって研ぎ澄まされ、時として挫折によって深く刻み込まれた感覚の堆積だといえる。ある人はそれを「魂」と呼ぶかもしれないし、別の人は「暗黙知」や「感性の核」と呼ぶかもしれない。呼称はどうであれ、目に見える成果とは違う次元で静かに成熟しているこの「心的な蓄積」には、独自の敬意が払われるべきだと感じる。

とはいえ、外側に顕在化した結果、つまり対外的な蓄積もまた、人間が生きるうえで欠かせない要素だ。社会的評価、資格、数値化できる業績、どれも多くの人々にとって行動を続ける原動力になりうる。問題は、この対外的な蓄積と心的な蓄積とを同質のものとして扱ったり、片方だけを絶対視したりするときに生じる歪みだ。どちらも「蓄積」という言葉で表現はできるが、その性質は大きく異なる。両者のプロセスと本質を見極めることなく、いずれか一方にしか光を当てない社会のあり方は、やがて人々の内面を蝕みかねない。外部から見れば同じ実績を積んでいるように見える二人が、まったく異なる内面の成熟度合いを抱えている可能性は大いにある。そこに無自覚だと、人間存在の本質を取りこぼしてしまうのではないか。

心的蓄積の要は、深層での「感動と諦め」の交錯にある。成功体験や喜びだけが人の内面を育むわけではない。大きな失意や挫折に直面したとき、あるいはどうしても超えられない壁を前にしたときにこそ、固有の諦念が生まれる。諦念は単なる放棄とは違う。自分の限界や世界の不条理を直視したうえで、なお前へ進むか、あるいは別の方向へ向かうかを決断する地点に立たされる。そのとき、無理に突き進むことが必ずしも正解とは限らないし、また諦めたからといって何かがすべて失われるわけでもない。その複雑な心理のゆらめきが、新たな「受容」の回路を開くかもしれない。心の奥深くで「ああ、こういうものなのだ」と静かに悟る瞬間があるとき、人は不思議なかたちで研ぎ澄まされ、別の景色を見始める。ここには、社会的成果という枠組みとは無縁の、美的であり内省的な本質の体感がある。

一方で、対外的蓄積には社会とのインターフェイスとしての機能がある。学位や資格や肩書といったものは、他者からの信用や資源を獲得するうえで強い力を持つ。そこへ至るまでに努力を重ねるのは決して悪いことではない。むしろ、それらの形を媒介にして初めて到達できる領域がたくさんある。巨額の予算を動かす研究プロジェクトに参加するとき、あるいは多くの人々を巻き込む社会的なキャンペーンを立ち上げるとき、肩書の説得力がどうしても必要になる局面は多い。だからこそ、数字や肩書をまったく不要なものとして排除するのは乱暴だ。しかし、その肩書を得るために心的な深みの醸成をすべて後回しにすると、いざ大きな壁にぶつかったときに精神の根幹がぐらつく可能性がある。空虚な器だけが残って、「自分は何のためにここまでやってきたのか」を見失う危うさがあるからだ。

では、なぜ両者はこれほどまでに違うのか。ひとつの見方として、対外的蓄積は「可視化のプロセス」に強く依存しているという点が挙げられる。数字や記録や認証システムを通じて、誰もが同じ基準を共有しやすくなる。どれだけの利益を生んだか、何点を取ったか、どのレベルの試験に合格したか。定量評価は社会の秩序を保つうえで極めて有効だし、歴史的にも人間は文字や数値を使って世界を理解しようとしてきた。一方、心的蓄積は定量化がほとんど不可能な領域に属する。感動を数値化することはできないし、諦める際の絶妙な感情曲線は、人それぞれの内的宇宙に依存している。そこには「言語化しきれないリアリティ」が存在していて、それゆえに尊い。数値で表せないからこそ曖昧に見えるし、一見すると実用性に乏しいように思われがちだが、実際には人間が本気で行動するための源泉が、この言語化不能な領域に埋まっている場合が多い。

古来より、宗教や哲学はこの「形なきリアリティ」を扱おうとしてきた。真理を言語で説明することに限界があるように、深い悟りや覚醒体験を数値化して提示することもできない。宗教の世界では、それを神秘体験と呼ぶことがあるし、哲学の世界では超越論的視座や現象学的還元などの多彩な言葉が生まれてきた。どちらにせよ、「言語や数値を超えた感得」が人間の存在を根源的に揺るがす瞬間があるという事実に、古の知者たちは気づいていた。現代社会では、その一端を科学的に解明しようという試みもあるが、脳科学や心理学のアプローチはまだ断片的にしか人間の深層を照らしていない。多くを解明したかに見えて、その影にはなお、大いなる未知の領域が横たわっている。

心的な蓄積が長く生きているだけで自然に増すとは限らない。膨大な時間をかけて外部の情報を浴びていても、それが心の深部にまで染み込むとは限らないからだ。むしろ深く沈殿するためには、何らかのインパクトや能動的な受容態勢が必要になる。たとえば、同じ本を読んでも、受け手が全身全霊を注いで読み解こうとする場合と、ただ流し読みする場合とでは、もたらされる内面の変化がまるで違う。そこには「真剣勝負」という言葉が似合う。外界と真剣に向き合い、そこから学ぶという行為こそが、形而上学的な次元での変容を呼び起こす。音楽や芸術に対しても同じことが言える。ほんの数秒の旋律に魂を揺さぶられる人間もいれば、何度聴いても感動を見いだせない人間もいる。どちらがいい悪いという話ではなく、この「差異」こそが内部蓄積の厚みと関係しているということだ。

それでも、人間はひたすら内面だけを耕して生きることはできない。肉体を持ち、社会の中で生活し、誰かとコミュニケーションをとらねばならない以上、外部的な蓄積や成果も必要だ。まったく金を稼がずに生きるのは難しいし、完全に外界と断絶した思索だけを続けるのは至難の業だろう。芸術家も学者も、何らかの形で社会と接点を持ち、作品や論文を公表し、それを糧に生きている。そこで評価や対価が伴う以上、やはり「形ある成果」は避けられない。だが、その成果を追求する過程で自分の内面を掘り下げる時間と余力を失いはしないか。そこに警戒心を持つことは大事だ。何かを得ることにばかり執心すると、いつしか手段が目的化し、自分が本当に求めていたものを忘れてしまうかもしれない。

心的蓄積を深めるためには、衝撃的な体験が有効な場合がある。人生を変えるような大病をしたり、大切な存在を失ったり、あるいは想像を絶するほどの成功をつかんだり。極端に振れた出来事は、一気に魂の奥に刻印を刻む。その大波に揺さぶられたとき、人は自分のこれまでの価値観や認識を根こそぎ再編成する必要に迫られる。そこに生まれる葛藤や逡巡、絶望や歓喜が、新たな感受性を芽生えさせるのだろう。しかし、そうしたドラマティックな事件がなければ成熟しないというわけでもない。むしろ日々の些細な変化を拾い上げ、そこに新鮮な視点や疑問を投げかけることこそが、緩やかだが確実な深まりを生む。静かな日常に、ふと差し込む一条の光のような気づきが、一生の財産になるかもしれない。

感動だけでなく、諦めもまた大きい。諦めのなかにしか見えない風景がある。何かを必死で追い求め、結局到達できなかったとき、人はその対象とは別の次元で自己や世界を捉え直す可能性がある。そこにはおそらく「余白」と呼ぶべきものが現れるはずだ。人間の意志や努力ではどうにもならない領域がある、と悟ることは一面では敗北感を伴うが、他面では謙虚さや柔軟性を育む土壌でもある。実際、人生で多くを達成してきた人ほど、その限界を知ったときに強い無力感に襲われることがある。ところが、その無力感を受け入れ、さらにそこにある種の美しさや諦観を見いだしたとき、人は不思議と開放される。力ずくで何でも実現しようとしていたときには見えなかった「このままでもいいのだ」という包容力が心に生まれる。この感覚は言葉では捉えきれないが、明らかに以前とは異なる価値観と感受性が芽生えていることに気づかされる。

心的蓄積において重要なのは、他者の眼差しが必ずしも直接の評価として働かない点だ。多くの場合、それは自分だけが真に知っている世界だ。外から評価されようがされまいが、心の奥に沈んだ何かは、自分を揺るがす力を持ち続ける。だからこそ、人は自問する。「社会的に認められなくても、これは自分にとって意味があるのか?」「経済的にペイしなくても、続けたいほど価値があるのか?」と。そこにYesと答えられる人は、すでに形がないものへの敬意を持っているのだと思う。逆にそれにNoと答えてしまうなら、外部からの承認こそが行動の原動力になっているということかもしれない。どちらが良い悪いという単純な話ではなく、人は常に両方の間で揺れる。しかし、自分の軸がどこにあるかを知っておかないと、社会的成果をいくら積み上げてもなぜか虚ろなままだったり、あるいは心の充実を得ても生活が破綻してしまったりするのだろう。

外部への蓄積が一切なければ、せっかくの内面世界も孤立し、他者に共有されることなく埋もれてしまう。人間は社会的存在である以上、何らかの形で外部へアピールしたり表現したりしなければ、誰にも届かない。小説家が作品を書いて出版しなければ、その人が心に秘める物語世界は読者の眼に触れない。ミュージシャンが曲を発表しなければ、その音の宇宙は誰とも共有されない。結果として「対外的な蓄積」と呼べるものがまったく生成されない。そこに加わる努力や構築は、人間のコミュニケーションの要でもある。だから、すべてを独白のまま終わらせるのはもったいないし、そもそも完全に自己完結できる人などごくわずかだろう。形なきものは、時に形あるものとして外界に顕現してこそ、多くの人々を巻き込み、新たなインスピレーションをもたらす。ある種の「媒介としての現実化」が、内面の深みをより大きな場へ運ぶ手段になる。

ただし、外部への表現が際立ちすぎると、今度は形あるものだけが注目され、そこに至る内面の過程が矮小化される危険がある。華やかな作品や成果は目を引くが、その背景にある暗中模索や葛藤、半ば涙ながらに受容した諦念や悲哀は、往々にして切り捨てられる。人々は完成形だけを見て評価しがちであり、「過程」に注目するのは限られた好事家か、当事者自身くらいのものかもしれない。ゆえに、形になっていない部分こそが本質なのだと考える人ほど、評価されない孤独を抱えやすい。それでも、形なき領域を十分に踏まえた上で形のある成果を出そうとする人は、実に強靱な精神を持つように思う。そこに欠かせないのは、「いずれも大切なのだ」という気づきだ。心的な深みがあるからこそ形ある成果に重厚感が宿るし、形ある成果を目指すプロセスが、さらに心的蓄積を拡張してくれる。

ここで少し形而上学的な視点に立つと、「人間はなぜこのように二層構造をもって生きているのか」という疑問が浮かぶ。もし魂なり意識の根源が、外部の世界と直接同化できるなら、こんなに苦労はしないかもしれない。感動を得た瞬間に世界が変容し、そのまま全人類と共有できるのだとしたら、個の存在意義はどうなってしまうのか。あるいは、完全に孤立した個として心的蓄積だけを温めても、何ひとつ外部へ発信できないなら、それはそれで無意味な苦行とも言えるのかもしれない。結局、内面と外面という二極の往還こそが人間の条件であり、その矛盾と葛藤を抱えながら成長するというのが、避けられない実存的な宿命なのだろう。そこに生きがいや美が生まれるとも言えるし、逆に終わりなき苦悩を引き受ける宿命でもある。どちらに転んでも、そこに絶対の答えは存在しない。ゆえに、常に「いま、この瞬間、自分はどちらを必要としているのか」を見直しながら進まなければならないのだと思う。

この意味では、「どんなに近くても別の敬意を払う」というのは、単に内面重視か外面重視かの問題ではなく、そもそも人間存在が内面と外面の両面を併せ持ち、互いを補完し合いながら不可避の緊張関係にあることを示唆している。敬意という言葉が示すのは、両方がそれぞれ独立した価値領域を持ち、一方を他方の基準で裁こうとしない姿勢だと思う。外部的な実績を尊重するなら、そのプロセスに潜む内面の成長や学びを見落としてはならないし、逆に内面の成熟を称揚するなら、それを社会のどこかで形にしないまま孤立させてはいけないということになる。どちらか一方を盲信すると、すべての人間行動を同じ物差しで計り始め、結局は無理解と対立が生まれる。そこにある多層性と差異を認め、なおかつ社会を動かすための総合的な視点を失わないことが大切だ。

思考をさらに深めると、「経験の差分による感性の磨き」というフレーズにも目を向ける必要がある。蓄積には、同じことを繰り返す過程で生じる微細なズレやギャップ、あるいは以前と今との感覚の違いに気づくことが欠かせない。初めて体験する衝撃も大事だが、何度も繰り返してきた行為や現象にこそ、時に深層的な発見がある。そこを見逃すかどうかが、「ただ飽きるだけ」か「新たな視点を獲得する」かを分ける。これは芸術や職人技はもちろん、日常生活のあらゆる場面にも当てはまる。毎朝の通勤路を同じように歩いているつもりでも、季節や天候、人々の服装や自分の心境が微妙に変化することで、実は一度として同じ風景は存在しない。それに気づくかどうか。心が研ぎ澄まされていれば、小さな差分が不思議な感動や発想をもたらすかもしれない。この差分の累積こそが、本当の意味での経験値を生み出す。そうして徐々に感性は磨かれ、暗黙知が形成されていくのだろう。

諦めもまた、同じことの反復の中で「もう無理だ」と悟る瞬間に訪れることがある。なまじ希望を抱き続けているときよりも、諦めが確定した瞬間にこそ見える世界がある。失望と同時に妙な落ち着きがやってきて、「意外と悪くないかもしれない」という逆説的な開放感に包まれる人もいる。そこを経ると、ひとつのことに執着しすぎる狭い視野から解き放たれる。すると別の方向が自然と視界に入ってくる。このプロセスも、数値や外部指標では測れないが、本人にとっては革命的な転換点となることがある。心の蓄積とは、そうした外部には伝わりにくい感情の振幅によってもたらされるのだが、それが長い人生の中で何度も起こりうるとなると、人間の内面世界のスケールは想像以上に大きいことに気づかざるを得ない。

最終的には、この内面と外面との往復運動こそが、人間にとっての生成的営みなのだと思う。対外的な蓄積ばかり追い求めると、いつか自分自身の根源が希薄化する。心の蓄積を蔑ろにすれば、結果だけが肥大化し、その空虚さに耐えられなくなるだろう。逆に、心的な深みだけを大事にして外界と断絶すれば、せっかくの宝物を誰とも共有できないまま朽ちてしまうかもしれない。どちらに振れすぎても、何か大切なものが失われる。だから両者を常に対話させ、自分の内面を強靱に保ちながら外部への橋をかける。あるいは外部で活動して得た資源や評価を、自分の内部の糧として咀嚼し、さらに豊かな感性を磨く。その循環が続く限り、人間はさまざまな経験を通じて思いも寄らない成熟を遂げていくことだろう。そこにこそ、生きることの奥深い意味が隠されているようにも思う。

最初からすべてをわかっている人はいないし、一度きりの成功や発見で永遠に満たされるわけでもない。人間は常に渇望と過剰を往還しながら、外部の世界へ手を伸ばし、内部の世界を掘り下げる。それぞれのプロセスで得たものが、本当に自分を満たすものなのかどうかを問い続ける。その問いの繰り返しが、結果として「自分なりの価値」を形成するし、同時に他者との関係性や社会での役割にも影響を与える。外部的な栄光を手にしても空虚に感じるなら、もっと内面を耕す必要があるのかもしれない。逆に、心の神秘ばかり追い求めて生活や人間関係が崩壊するなら、少し地に足をつけて現実的な基盤を築くことが不可欠かもしれない。どちらも欠落しては、人生の歯車が噛み合わなくなる。

このように考えると、心の蓄積と対外的な蓄積は、決して対立概念などではなく、むしろ一人の人間が充実した存在となるための双璧のように見える。敬意を払うべきは、それぞれの果たす役割とプロセスの違いだ。外部の評価に繋がる成果にも敬意を払う。そこへ到達するまでの努力や工夫、人的ネットワークの構築や計画性、あらゆる知恵が詰まっているだろう。一方、心のなかで醸成される暗黙知や感性的覚醒にも同じだけの敬意を払う。たとえ他人にはわからなくても、自分が確かに味わったあの感動や、絶望の淵で得た閃きは、誰にも代替できない唯一無二のものだ。それがこそばゆいほど小さな光であっても、本人の存在を根底から変える力を秘めているかもしれない。外部には伝わりにくいが、本人の生き方や選択を左右するほどの重大事だってある。

互いの差異を認め、どちらも大切にしていくことは、生きること自体を多層的にする。相反する価値観のあいだを行き来するうちに、人は否が応でも自分の選択に責任を持つようになる。外部から評価されなくても、自分にとって意味があると信じるものを続けるか。あるいは、社会的な評価を得るために自分の一部を切り捨てるか。そこには常に葛藤が伴うが、だからこそ人生は「ただ流されるだけの時間」ではなく、能動的な営みへと転換される。おそらく、この二重構造を意識しながら生きることは相当に神経を使うし、しんどい作業かもしれないが、それが人間という存在に与えられたある種の特権でもある。動物や機械のようにプログラムされた行動だけで生きるのではなく、自分の内部に問いを持ち、外部に構築物を残し、しかもそれを往復しながら少しずつ自己を拡張していく可能性を持っている。

だからこそ、本質的には両方とも尊い。だが、そのプロセスはまったく違うということを忘れてはいけない。対外的な実績を増やしていくときには、「いかに他者や社会に示し得るか」という視点が不可避だ。そこには手順や計画、論理的思考や合理性が要求される。一方、心の中を耕す営みでは、ときに非合理な思いつきや衝動、感情の揺れが原動力になるかもしれないし、論理では説明できない直観が何よりも頼りになるかもしれない。社会的なレールの上を走るのとは別の法則が内部には働いている。その二つを同一の基準で評価すると、混乱や対立が生まれるのは当たり前だろう。敬意を払うというのは、互いに別の基準を持つからこそ「別々のものとして成立し得るのだ」という認識を共有することでもある。

重要なのは、自分にとってどちらが不足しているのかを常に観察してみることだ。外部からの賞賛や成果ばかりを追い求めて疲弊しているなら、意識的に心に目を向ける時間を作り、そこに潜む感情や欲求を見つめ直してみる。あるいは、やけに恍惚的な内面世界にばかり浸っていて社会性が崩壊しかけているなら、目指すべき具体的な成果や数値目標を設定して、自分がどこまで現実と協調できるか試してみる。そのプロセスでまた違う角度の学びや発見、あるいは新たな挫折を経験し、さらに内面が変容していくかもしれない。そうやって人は、両方の蓄積を行き来しながら折り合いをつけ、結果として唯一無二の生き方を形作っていくのだろう。

内側と外側が常に乖離している状態は、長期的には生存戦略としても危うい。心の真実を隠したまま外部的な成功だけを追い求めると、いつか偽りの人格が崩壊する可能性があるし、逆に外部とまったく調和しない内面世界にのみ価値を置いていれば、孤立と貧窮から抜け出せなくなるかもしれない。どこかでバランスを取る必要がある。もっと言えば、バランスを取る行為自体が人生の醍醐味とも言える。ひとたび安定したかに見えるバランスも、環境や自分の状態が変わればすぐに崩れる。そこですぐ軌道修正を図り、再び歩みを進める。その繰り返しが、個としての成長を促し、世界を少しずつ違う姿に見せてくれる。視点が変われば、今まで平凡と思っていた日々が違う色彩を帯びて感じられることもある。こうした微妙な質感の変化が、まさに心の「差分」による蓄積だといえる。

結局、人生のどの時点でどんな蓄積を優先するかは、人によって異なるし、普遍的な正解は存在しない。ある者は若い頃から内省的に生き、対外的な実績には無頓着かもしれないし、別の者は若い頃にバリバリと成果を上げてから、後になって心の空洞に気づき、瞑想や哲学へ傾倒するかもしれない。人の歩み方は千差万別であり、それぞれに必然がある。その多様性を無理に均質化しようとすれば、社会は管理しやすくなるかもしれないが、人間の本質はどこかへ消えていく。要は、誰もが一種の未知なる旅をしており、外部と内部の帳尻を合わせながら何かを発見し、何かを捨て、そしてまた何かを掴む。そのスリリングなプロセスを一括りの物差しで測るのは無謀だし、不毛でもある。だからこそ、どんなに近しい領域に見えても、両者にはやはり別々の敬意が必要なのだ。

深く掘り下げれば掘り下げるほど、このテーマには終わりがない。内面を極限まで掘り下げる試みは芸術や宗教、哲学や心理学などさまざまな形を取り得るし、外部的な成果を最大限に高める試みは政治経済や学問やテクノロジーなど、多方面にわたって進化し続ける。人間という存在は、この両輪を持ち合わせているがゆえに歴史を動かしてきたとも言える。どちらか一方だけを選び取ってしまうと、世界の多面性を失い、いずれ停滞するか混乱するかのどちらかだろう。混乱の末に改めて気づく人もいるだろうし、あえて停滞を選び内面に沈潜していく人もいる。しかし、外へ向かう力と内へ向かう力、この二つの緊張関係を自覚し、どちらに対しても畏敬の念を抱く人こそが、自分の本質や可能性を豊かに開花させるのではないか。そう考えると、この二項を対立概念として扱うのではなく、あくまで「別の位相にありながら互いに照らし合うもの」として捉えるのが妥当だと感じる。

形あるものと形なきもの。その双方を意識し、両者の狭間で揺れ動きながら生きることにこそ、人間的なドラマの核心が潜んでいる。だからこそ、いつどこで人生が思わぬ方向へ展開し、新しい認識をもたらすかもしれないし、長年こだわってきたものを手放すことでようやく視界が開けるかもしれない。一見矛盾しているようだが、矛盾こそが動力になっている。矛盾がないなら、もはや人間はそこで立ち止まり、一切の感動も失うだろう。絶えず「なぜ?」を問い、「それでも?」と模索するからこそ、新しい世界への扉が開く。外部に築いたものと内部で熟成させたもの、その両方を携えて先へ進むことで、人生は単なる流れ作業ではなく、意義深い変容の連鎖になり得る。

そうして生まれた蓄積は、他者とは共有しきれない部分を多分に含みつつ、しかし言葉や行動の節々に滲み出る。人を見抜くとき、何気ない態度や言葉遣いにこそその人の深い蓄積が表れることがある。形だけでは飾れない領域だ。逆に、壮大な実績を抱えていながら、なぜか底の浅さや落ち着きのなさを感じさせる人もいるかもしれない。そこに疑問を抱くなら、それは外部的な成果と内部の成熟度が噛み合っていない兆候かもしれないし、本人の中で未消化の状態が続いているのかもしれない。最終的に、互いの矛盾がどれだけ少なくなっていくか、あるいは矛盾をどれだけ生産的に活用できるかが、その人の「存在の一貫性」を決めると言えるだろう。

内面と外面、この二つの軌跡は交差しつつも決して重なることはない。にもかかわらず、人はその両方を同時に抱えながら生きている。この奇妙な二重性に驚きながらも、敬意を払い合える社会であってほしいと願う。誰かの目に見える成果だけを賛美するのではなく、見えないところに宿る深い物語にも思いを馳せる。逆に、形而上的な探究をしている人に対して「何の役に立つのか」と切り捨てるのではなく、そこにこそ広がる無限の可能性や美しさを想像する。その相互理解の試みは決して簡単ではないが、それを断念するなら、人類は自らの知性と感性を狭めることになる。

かくして、どんなに近しく見えても、それぞれ異なるプロセスと位相を持つ蓄積には、それぞれ固有の敬意を払う必要がある。そこには社会的成功と個人的成熟を二律背反ではなく、二重螺旋のごとく絡み合わせながら歩む人間の姿が浮かび上がる。いずれか一方に固執することで得られるものもあるが、失うものもまた大きい。両方の力学を意識して、感動と諦めの振幅を血肉に変え、外に見える成果だけでなく、内に宿るものの尊厳も大切にする。その態度こそが、最終的に自分という存在を自由かつ強靱にし、新たな発見や価値創造の扉を開いていくのではないか。そう信じる以上、この二種の蓄積を同列に扱わず、境界を意識しながら敬意を払うという姿勢には、決して尽きることのない意味があると思う。

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