LLMで書くエッセイ連載vol.1「あなたの物語を生きろ――あなた自身の狂気とともに。」
冬の夜、冷えたコーヒーカップを片手に、あなたはディスプレイの前でふと手を止める。所属しているプロジェクトは佳境で、デバッグのためにコードの行間にひそむ複雑な文脈を解読しようとしていたのに、気がつけばLLMの出力画面を眺めている。そこで生成されたコードは、見事なまでに正確だ。バグを特定し、最適な解決策を提示し、さらにはコードの可読性まで考慮している。あなたは驚嘆の溜息を漏らすが、やがて不意に、それはあなたの存在を薄い霧のように消し去る感覚をもたらす。これまで何年もかけて磨いてきた技術的な直感や経験則が、一瞬にして陳腐化していくような不安が胸を占める。自分の価値がLLMに飲み込まれていくような気がする。あらゆるタスクが数行のプロンプトで解決できる未来は、喜びと恐怖が等しい感覚を分かつ。
フィリップ・K・ディックの代表作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、人工知能を持つアンドロイドと人間の境界が曖昧になっていく世界が描かれている。主人公リック・デッカードが直面する最大の問いは、「人間らしさとは何か?」「自分がアンドロイドでないとどうして言えるのか?」というものだった。現代に生きる私たちもまた、LLMという新たな知性の出現により、類似の実存的な問いに直面している。それは、「LLMができる仕事が増えていくほど、社会に人間の存在する意味は失われていくのではないか?」 というものだ。LLMはどこへ向かい、私たちはどこへ向かえばいいのか? 仕事を通じた社会参画による自己肯定感がLLMによって奪われることが必然なのだとしたら、私たちはどのようにして再び、自分たちの存在を肯定できるのか? ――これらは抽象的で哲学的で普遍的な問いであると同時に、実際に具体的に存在する、目下喫緊の課題でもある。
イヴァン・イリイチは、機械と人間の関係性について深く考察し、「コンヴィヴィアリティ(自律共生性)」という概念を提唱した。彼は、技術の目的は人間を支配することではなく、人間が自分らしい方法で自由に生きられる「遊び場」をつくることだと主張した。この視点は、現代のLLM時代においても示唆に富む。重要なのは、技術が単なる効率化の道具として人間を駆逐するのではなく、むしろ新しい可能性の空間を広げるものであるべきだという点だ。イリイチの言う「遊び場」とは、創造性と実験の場であり、失敗さえも許容する寛容な空間を意味する。
ここで、スティーブ・ジョブスやイーロン・マスクの「狂気」とも呼びうるような独自のスタンスを思い出してほしい。彼らはテクノロジーを単なる効率化の道具とはみなさなかった。iPhoneやSpaceXは、単なる製品やサービスではなく、世界そのものを再定義する「欲望の顕現」だった。彼らの功績は、技術そのものではなく、その技術が何を可能にするかという問いを突き詰めたところにある。彼らは技術的な制約や市場の常識に縛られることなく、人類の可能性を拡張する夢を追求した。LLM時代の人間の課題もまた、この「問い」を持てるかどうかにかかっている。
LLMの台頭が特に危機感を抱かせる理由は、その「汎用性」にある。LLMは特定の分野に限定されず、プログラミングから創作、顧客対応までを一手に担うポテンシャルを持つ。この点で、産業革命の機械やIT革命のソフトウェアとは異質だ。これらのツールは、特定の定型的なタスクを自動化・高速化・簡略化するためのものだったが、LLMは「人間の柔軟な思考そのもの」を模倣する。そのため、職業人としてのアイデンティティが脅かされる感覚を覚えるのは当然のことだ。私たちは、自分の専門性や経験が一朝一夕に置き換えられる可能性と向き合わざるを得ない。ハイデガーは『技術への問い』において、技術の本質は単なる道具性にあるのではなく、世界を「取り立てる」特定の方法にあると指摘した。現代においてこの洞察は新たな意味を帯びる。人間はLLMによって、従来の世界観から、確かに何か、どこかかけがえのないものを「取り立て」られている。
一方で、ここには重要な価値の転換点が潜んでいる。ヒントはアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にある。同作においてカミュは、不条理な状況に直面した人間の態度を詳細に描きつつ、「不自由な不条理との対峙によって初めて、真に自由と呼びうる状態が生まれる」という逆説的な結論に至っていた。同様に、LLMという不条理とも思える技術の出現は、むしろ人間の新たな可能性を開く契機となりうる。なぜなら、LLMが「何かを実際に考えている」のではなく、膨大なデータから統計的に最適解を出しているにすぎないという事実は、逆説的に人間の独自性を浮き彫りにするからだ。LLMには意識も欲望もない。つまるところLLMは、人間のような不条理を生きていないという点においてやはり道具であり、それをどう使うかを決める主体は依然として、不自由な中で自由を獲得する人間なのである。ここで重要なのは、単なる道具的連関の中で機械的に配置されるエージェントとしての人間ではなく、不合理な欲望をかかえ、もがきその過程で何かを排出する「創造する主体」としての人間が問われている点だ。LLMは既存のパターンを組み合わせることはできても、真に革新的なアイデアを生み出すことはできない。その限界こそが、人間の可能性の始まりである。
ジョブスが語った「Stay hungry, stay foolish.」という言葉は、単なるスローガンではない。それは、「飢え」と「愚かさ」という二つの対極的な状態がもたらすダイナミズムの中に、創造性の種が宿るという哲学的洞察だった。飢えは欲望を生み、愚かさは未知への挑戦を可能にする。この逆説的な組み合わせこそ、LLMがどれほど進化しようとも再現できない人間特有の領域だ。論理的な思考だけでは到達できない飛躍や、効率では測れない価値の創造が、ここから生まれる。この文脈で、「欲望」とは単なる利己的な野心ではなく、未来を再定義しようとする内発的な衝動を意味する。欲望には、しばしば「狂気」と呼ばれるような純粋なエネルギーが必要だ。それはシステムや効率性の枠組みを超えて、新しい意味や価値を創出する力となる。アップルやテスラ、SpaceXのような壮大なプロジェクトはつねに、実際的な必要性を超えた「狂気」としての欲望から生まれている。この「狂気」は、単なる非合理性ではなく、既存の合理性を超えた新しい合理性の萌芽である。
LLM以降の具体的な生存戦略として、リスキルが叫ばれることがしばしばある。学び直し、新たな環境に適応していくことは確かに有効だが、それは単なる技術的なスキルの更新ではなく、より抽象的でより大きなスキルと言える「問いを立てる力」の習得でなければならない。そこではたとえば、コーディングの知識を更新するだけではなく、「LLMを使ってお前は何を成し遂げたいのか?」というような根本的な問いを持つことが求められる。技術的なスキルは時代とともに陳腐化するが、本質的な問いを立てる力は、むしろ時代とともに価値を増す。
こうした点を踏まえると、リスキル教育の真にあるべき目的は、人々が「自分自身のスタンス」を発見するための助け舟となることだ。そのためには、教育そのものが対話的であり、問いを誘発する場でなければならない。単なる知識の詰め込みや技術習得では、LLM時代の本質的な競争力にはならない。むしろ、異なる分野や文脈を横断し、アナロジカルな思考に基づき、異物と異物をつなぎあわせて新たな異物を生み出すような能力が鍵となるという意味では、ソクラテスの時代から変わらない古典的で普遍的な状況なのだと言える。アリストテレスはエコノミクスの語源である「オイコノミア(家政学)」を、単なる家計管理に留めることなく、人間が共同体を維持し発展させるための体系的な知恵としてとらえたが、こうした思考法は現代においても、既存の枠組みを超えて、まったく新しい可能性を見出す力を育むために有効と言える。
あらためて問おう。LLMと共存する未来における人間の役割とは何だろうか? 一言で言えばそれは、「枠組みを問い直す者」としての役割である。LLMは既存の枠組みの中で優れた成果を上げるが、その枠組み自体を変える力はない。たとえば、ある業界の常識や前提を疑い、新しい市場や文化を生み出すのは依然として人間の特権だ。私たちに求められているのは、LLMという道具を使いこなしながら、より大きな視点から物事を捉え直す勇気である。
これを理解するには、やはり、一見すると遠回りするかのように見える文学や哲学などの抽象的な知性の蓄積が参考になる。私たちはここに至るまでに様々な人文学的な議論への寄り道を繰り返してきたが、それはマルセル・プルーストが『失われた時を求めて』において描き出してみせたように、過去の記憶の再解釈を通じて、新しい概念を創り上げるような営みだった。プルーストが成し遂げたことは、語り直しによる単なる物語の再構成などではなく、物理的に実在するはずの、時間そのものを問い直す試みだった。人間の役割は、LLMが支配する既存のフレームを超えて、新しい世界像を描くことにある。それは時として、非効率的で回り道のように見えるかもしれない。しかし、その迂回路こそが、新しい価値を生み出す源泉となる。
こうして私たちは結論に至る。与えられた未来に向けての指針はシンプルだ。「狂気」とも呼びうる自分の固有の衝動を信じ、欲望と情熱を突き詰めること。そして自分なりのスタンスをとること。自分だけの時間、自分だけの世界を生き抜くこと。それは、時にリスクを伴い、失敗もするだろう。しかし、その過程で生まれるエネルギーこそが、LLMには到底真似できない人間特有の価値である。私たちは、効率や生産性という尺度では測れない、より深い次元での創造性を追求する必要がある。
LLM以降の時代においても、人間の存在意義は失われない。それどころか、今こそ逆説的に、私たちが何を欲望し、どのように狂気を形にするかによって、新しい世界が生まれるとすら言えるのだ。技術による抜本的な社会変革は、私たち自身の創造性を抜本的に変革するための機会として捉えるべきだ。
あなたの問いが、あなたの未来を創る。そしてその問いの深さと広さこそが、あなた自身を救うだろう。
kyosuke higuchi with ChatGPT4o and Claude 3.5 Sonnet
(本記事は社内ニュースレターからの転載です)
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