AI時代こそ、エンジニアは「師匠」が要る
「とりあえずAIに聞いて」と言い続けた結果
最近、後輩エンジニアの質問に「とりあえずAIに聞いてみて」と返すのが口癖になっている、とふと気づきました。
最初は気にも留めませんでした。AIに聞けば答えはだいたい返る。手も止まらない。後輩も自走しているように見える。コードは書ける。タスクも終わる。レビューも通る。
でも「なぜそう書いたのか」を聞くと、答えに窮する。結局、こちらも一緒に背景や上流から考え直すことになる。この後輩は独り立ちできるのだろうか。そしてそもそもこのやり方だと私自身が何者にもなれていないと思ったのがこの記事の出発点です。
結論を先に書くと、AI時代のエンジニアに必要なのは遠隔項を会得できそうな師匠を見つけること、言い換えれば「同期的・長時間・思考開示型」のフォーマットを誰と持つかで、その具体的な実装がペアプログラミングやモブプログラミングだと考えています。前半は思想の話、後半でペアプロ・モブプロという具体に降ります。
学びは「創発」だ、という話
このモヤモヤを言語化するのに効いたのが、認知科学者の鈴木宏昭氏の『私たちはどう学んでいるのか――創発から見る認知の変化』[1]です。
学びとは知識を頭に貯める作業ではなく、創発のプロセスである、と鈴木氏は言います。創発の条件はざっくり3つ。多様なリソース・要素間の揺らぎ・環境からの影響。
ここで着目したいのは、揺らぎです。揺らぎはノイズではなく、問いが問いを呼ぶ連鎖のこと。「あれ、これでいいんだっけ」「そもそも何のためにやってるんだ」という自問の連鎖こそが、学びの本体ではないでしょうか。そして鈴木氏は、創発はそもそも、要素を分解しても予測できない・コントロールできない性質を持つと繰り返し強調しています。
AIは「揺らぎ」を短絡させる
AIに問うと、最短ルートで答えが返ります。けれど教育の文脈では、これが致命傷になりかねません。主体が問いを育てる前に、答えが来てしまう。揺らぐ前に、整った文章が返る。創発に必要だったはずの揺らぎが、短絡される。
例えば、エラーログをそのままAIに貼り付け、返ってきた「原因と対処」を実行する。動くし、タスクも終わる。けれど本人の中では、「なぜこのエラーが出たのか」「他にどんな仮説があり得たか」「次に似た現象に当たったら最初にどこを見るか」という問いが、立ち上がらないまま終わる。
デバッグや障害対応はまさに「あれ?」という揺らぎから始まる作業のはずです。揺らぎの起点を素通りすると、経験は積み上がっていきません。
もう一段踏み込むと、揺らぎとは自分が今どこにいるかわからないという認知的な不安と裏表なのかもしれません。「あれ、これでいいんだっけ」と問いが起きるのは、立っている地面が一瞬グラついた瞬間です。その不安に耐えながら次の手を探す時間が、結果として創発を生む。
AIに聞く行為は、答えだけでなくその不安そのものを肩代わりさせる動きでもあります。グラつく前に地面を貼ってもらう。早く・確実・効率的に。けれどエンジニアが育つというのは、この不安に耐える筋肉を作ることだったのかもしれません。AIが短絡させているのは揺らぎだけでなく、揺らぎを許容する不安耐性そのものではないでしょうか。
ポランニーの「近接項・遠隔項」という補助線
では、揺らぎが消えた先で何が削られているのか。補助線になるのが、ポランニーの暗黙知の議論[2]です。
- 近接項 (proximal): 意識せず使っている手がかり。ピアノを弾く指の運動感覚や、文章を読むときの文字面のように、それ自体には焦点を当てていない補助的な要素。
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遠隔項 (distal): 焦点として捉えている本質。指の動きの先に生まれる演奏や、文字面の先に伝わる意味のように、言語化しづらく、近接項を経由してしか掴めない対象。

近接項と遠隔項
たとえば、人の顔を認識するとき。私たちは目・鼻・口(近接項)から、無意識のうちに「その人らしさ」(遠隔項)へと「from-to」で意識を伸ばしています(手がかりから本質へと意識が伸びていく動き)。ところが、目・鼻・口を一つずつ詳細に観察し始めた瞬間、「その人らしさ」のほうは消える。近接項に焦点を当てた瞬間、統合は壊れる——これがポランニーの中核の指摘です。
教育の文脈で言えば、遠隔項は直接渡せない。「いい設計とはこういうものだ」と先輩が言葉にした瞬間、それは近接項に変質し、本当に伝えたかった何かではなく、言葉になった「ルール」だけが伝わる。Cognitive Apprenticeship[3]も熟達者は自分の暗黙的な思考プロセスを伝え損ねるという構造を扱ってきました。
AIの出力は、デフォルトでは近接項として整形済みになりがちです。きれいに言語化され、構造化されている。受け手は遠隔項に「from-to」する必要を感じません。渡せないものなのに、渡せたかのような錯覚だけが残る。先輩の沈黙や言いよどみには、本来from-toの跳躍を促す余白がありました。AIの整った出力には、その余白がない。「教育」と呼ばれてきた営みの多くは、実は近接項を渡しているにすぎなかったのかもしれません。
もちろん、適切にプロンプトすればAIに「迷い」「ためらい」「ソクラテス式の問い返し」を開示させることはできます。ただ、それを引き出せる人は、すでに自分で問いを育てられている人です。その自分で問いを育てられている人に引き上げるためには後述でも触れる、「同期的・長時間・思考開示型」のフォーマットの場が大事だと考えます。
答えはたぶん、伝統芸能の徒弟制にある
ここまでをひとことで束ねるとAIは手がかりを大量に渡すが、本質への跳躍までは肩代わりしない。だからこそ、人の隣で学ぶ意味がむしろ増している——これがここまでの私の主張です。
育成の仕組みを上から設計するのではない方向で出口を探すとき、自分が腑に落ちたのが、日本の伝統芸能の師弟関係です。
能、歌舞伎、茶道、武道。古典的な徒弟制では、師匠は弟子にぶっきらぼうで抽象的なアドバイスしかしない、と語られます。「もっと丁寧に」「気を込めろ」「腰が浮いている」。具体的な手順を手取り足取りで教えはしない。代わりに弟子は師匠と長い時間を共にし、所作や立ち居振る舞い、ものの考え方や生き様までを、なんとなく真似ながら会得していく。
これはまさに、遠隔項の伝達そのものではないでしょうか。近接項として手順を渡した瞬間に壊れるものを、一緒に生活する時間の中で、近接項の向こう側のなにかとして受け取らせる。ぶっきらぼうで抽象的な言葉は、弟子の中で「from-to」を起動させるための、あえての余白だったのかもしれません。
エンジニアの世界に翻訳すると、必要なのは遠隔項を会得できそうな師匠を職場で見つけることではないかと思います。OJTの手順書でも、研修カリキュラムでも、メンタリングのテンプレートでもなく、その人の隣で長い時間を過ごし、コードレビューの口ぶり、設計判断のためらい、ホワイトボードの前での沈黙までを、なんとなく真似てしまうような関係です。
徒弟制は精神論ではなく、構造で機能していた
構造的に見ると、徒弟制が機能していたのには二つの理由があるように思います。第一に、「育てる手段」を分解して渡さない。手順マニュアルがないから、「マニュアルを使いこなせる人にしかマニュアルが効かない」という育成設計につきまとう矛盾を、そもそも引き起こさない。第二に、師匠は答えを出さない。ぶっきらぼうで抽象的な言葉に留めるから、弟子の中の揺らぎ(と、その裏側の不安)が温存される。育成を仕組みとして整えようとするほど削れてしまう「揺らぎが残る余地」と「自走の入口の問題」を、徒弟制は素朴に残している。精神論ではなく構造で機能していた、という見方もできます。
もちろん、徒弟制をそのまま理想化したいわけではありません。属人化、権力勾配、ハラスメントに転ぶ危険は大きい。ただ、抽象的なものがどう伝わるかという構造の部分には、AI時代に学ぶ点があるのではないか、という話です。
コーチングや1on1のように、関係を作るための方法論はすでにあるじゃないか?
たしかにそう思います。ただ、これらをメソッドとして教科書通りに運用した瞬間、また近接項化が起きるのではないでしょうか。「1on1のフォーマットに沿って傾聴する」「コーチングのGROWモデルで質問する」と形を整えても、師匠が今この瞬間どう思考しているか、どこで迷っているかまでは伝わらない。むしろメソッドを忠実にこなすほど、本音や違和感が「定型句」に置き換えられ、遠隔項はかえって遠ざかります。
AIに壁打ちさせればいいじゃないか?
たしかに、反論させる、構造の穴を聞く、別解を出させるような使い方なら揺らぎは生まれます。
ただ、ここに再帰問題があります。その使い方ができる人は、もともと自分で問いを育てられる人です。問いを育てられない人にとっては、「いい感じに反論して」というプロンプトすら降ってこない。うまく使えるようになるまでの育ち方自体が、議論されている点です。育てる手段が整っていないのに、その手段で育てろ、と言われている。この再帰は、新しいメソッドや仕組みを足すだけでは、たぶん解けません。
徒弟制って別にAI時代に限った話ではないのではないか?
たしかに師匠と弟子の関係はAI以前からあったし、いい先輩から学ぶ価値は普遍的です。
ただ、AI時代に何が変わったかというと、近接項のコモディティ化ではないでしょうか。
ここでひとつ補足が要ります。AI以前のマニュアルやネット記事も、見方によっては「整形済みの近接項」ではありました。では何が新しいのかというと、変わったのは近接項の生成コストと、文脈への適合度だと思います。AI以前は、自分で「何を調べるべきか」を先に問わなければ、近接項にたどり着けませんでした。引いた情報も、自分の状況に合わせて再解釈する必要がありました。
AIが日常の道具になった今、本人が問いを育てる前に、その人の状況にぴったりフィットした近接項が瞬時に降ってきます。問いを育てる過程そのものが、近接項の取得から消えた。だからこそ重要になるのは、「AIにできるかできないか」という二項対立ではなく、遠隔項が伝わるためのフォーマットである「同期的で、長時間にわたって、思考プロセスが自然に滲み出る時間」を、誰とどう持つかという問いではないでしょうか。そのフォーマットをもっとも素直に体現してくれる存在を、ここでは「師匠」と呼んでいます。
ペアプロ・モブプロは、隣に座る装置になりうる
徒弟制にもっとも近い形が、実はエンジニアの実務にすでにあります。ペアプログラミングとモブプログラミング[4]です。
ペアプロ・モブプロのキモは、複数人で同じ画面を見ながら、リアルタイムにコードを書き、議論し、迷い、判断するところにあります。ドライバーが手を動かしながら考え、ナビゲーターが横で別の角度から問いかける。誰かが詰まったら、別の誰かが言いよどみながら別解を出す。
ここで起きているのは、師匠の思考プロセスをリアルタイムに開示することではないでしょうか。普段なら個人の頭の中で完結している「設計判断のためらい」「コードを消す瞬間の躊躇」「『あ、こっちの方がいいな』という小さな方向転換」が、複数人の場で言語化されざるを得ない。前章で書いた「同期的・長時間・思考開示型」というフォーマットを、もっとも素直に体現しているのがペアプロ・モブプロです。
もちろん、ペアプロにも「ドライバーは10分で交代する」「ナビゲーターは入力しない」といった作法はあって、これを儀礼として運用すれば近接項化のリスクは出ます。けれど、徒弟制と同じく、長い時間隣に座り続けるなかで、本人にも言語化できていなかった何かが滲み出る場として機能しうるという意味で、ペアプロ・モブプロは単なる開発手法以上のものだと自分は感じています。
AI時代に後輩を本気で育てたいなら、1on1のフォーマットを1時間こなすより、ペアプロという「場」を共にしたほうが、滲み出たものが伝わる確率は上がるのではないかと、個人的な実感ですがそう思います。
これが、まえおきで書いた『対面で働く意味』への自分なりの答えです。これは、「同期的・長時間で、思考が滲み出る時間」の場を作れるか、ということです。
自分自身の師匠の話
ここで、自分自身の師匠の話をさせてください。
エンジニアになりたての頃、担当していた案件が燃えて、自分自身もかなり疲弊していました。それを見かねた当時の上司(管理職)で、本来とても忙しい立場の方が、ずっと隣で一緒に作業してくれたことがありました。
論理的思考力がずば抜けて高く、常に目的志向な人でした。「この作業の目的はなに?」「この会議の目的は何?」と、口酸っぱく問い返される。コードレビューでも、行を読み始める前にまず「で、これで何を解決したかったの?」と返ってくる。きつい問いの裏側には、夜になると飲みに連れて面倒をみてくれる優しさもありました。
その上司に最初に言われたのは、自分のエンジニアとしての基礎力をこき下ろされたことです。「思考が浅い」と散々言われました。当時はきつかったのですが、いま振り返ると、そこで自分の中に揺らぎが発生していたのだと思います。自分が立っている地面がグラついた瞬間でした。
そして隣で作業を続けるなかで、Linuxサーバーでのログのトレースの仕方、容量の重いファイルの分割と統合、ファイルアーカイブのオプションの使い分け、AWSのRDSのスナップショットの復元方法等の具体的なノウハウから、その上司の考え方やマインド面まで、なんとなく吸収していきました。
それが、いまの自分のエンジニアとしての基礎の中の基礎になっています。いま振り返ると、感謝しかない出来事です。近接項(コマンドや手順)と遠隔項(考え方・マインド)の両方を、長時間隣に座って初めて受け取れた時間でした。
結局のところ、自分が誰の隣に座るかという話
最後に、ここまで書きながら気づいた問いを置いて終わります。
自分は、後輩にとって師匠でありえているのだろうか。
「とりあえずAIに聞いて」と言い続けてきた自分は、その後輩の隣で長い時間を共にできていたでしょうか。コードレビューの口ぶり、設計判断のためらい、ホワイトボードの前での沈黙、にじみ出る言葉、抽象的にしか語れないなにかを、見せようとしていたでしょうか。「この後輩は独り立ちできるのだろうか」ではなく自分こそがその後輩の師匠であろうとする、というマインドが必要でした。
自分が師匠であろうとすることはたぶん難しい。明日から「いい師匠」になれるわけでもない。それでも、自分が動かなければ、隣に誰かが座ることもないだろうと思います。AIに任せず、自分の言葉で語ろうとする。後輩の質問に「とりあえずAIに」と返す前に、一度自分の中を通してみる。次のスプリントで「同期的・長時間・思考開示型」の場、たとえばペアプロを提案してみる。たぶんそこからしか始まりません。
これを読んでいるあなたにも、たぶん「あの人がいなければ今の自分はない」と思える人がいるはずです。その人は、何を教えてくれましたか。たぶん、手順書ではなかったはずです。
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鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか――創発から見る認知の変化』ちくまプリマー新書、2022年。 https://www.amazon.co.jp/dp/448068431X ↩︎
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マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫、2003年(原著1966年)。 https://www.amazon.co.jp/dp/4480088164 ポランニー自身は焦点的気づき(focal awareness)と補助的気づき(subsidiary awareness)の区別を中核に据え、「近接項に焦点を当てた瞬間、統合は壊れる」ことを繰り返し論じています。ピアニストが指の動きに意識を向けた瞬間に演奏が崩れる、単語を意識し続けると意味が失われる、といった例が挙げられている。本記事の「遠隔項は直接渡せない」はその含意を教育論の文脈に置き換えた表現で、ポランニー本人の言い回しそのままではありません。 ↩︎
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Collins, A., Brown, J. S., & Newman, S. E. (1987). Cognitive Apprenticeship: Teaching the Craft of Reading, Writing, and Mathematics. https://ocw.metu.edu.tr/pluginfile.php/9107/mod_resource/content/1/Collins report.pdf ↩︎
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モブプログラミングは近年、「mob(群衆・暴徒)」が持つネガティブな含意を避ける形でアンサンブルプログラミング (Ensemble Programming)と呼び替える動きがある。本記事では現時点での認知度を考慮して「モブプロ」と表記しているが、呼称は変遷の最中にある。 ↩︎
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